経歴

【昭和36年10月24日】
父、母の長男として誕生。 1男1女(姉)体重は 3,600gの大きな赤ん坊と聞いています。
小田原市井細田のアパートで幼少を過ごす。大雄山線を渡った足柄小学校とハ幡神社が遊ひ場でした。

 

【昭和41年4月】
橘町立下中幼稚園入園。お遊戯が好きで、魚屋さんに扮した覚えがあります。

 

【昭和43年4月】
橘町立(小田原市立)下中小学校入学。小学校4年生の特に橘町が小田原市に合併される。
給食のパンが1枚増えて皆が食べきれず、行政の格差について認識する。
学級委員を何回か務め、学芸会では張り切るが運動会は嫌いだった。

 

【昭和49年4月】
小田原市立橘中学校入字。卓球部に所属。今でこそ「愛らゃん」の活躍で有名ですが、バレー部、バスケ部にいつも追いやられていました。
中学2年生の夏、少年救急隊員の試験に合格。

 

【昭和52年4月】
神奈川県立足柄高等学校入学。第1期生であり、学区で初のブレザー服採用校でもありました。
4クラスしかない学校ではありましたが、生徒と先生の絆は強く、すきま風がはいる旧校舎での授業の思い出は忘れません。
部活動も少なく、友人と!映画研究会を設立し文化祭で8ミリ撮影した映画を上映しました。
製作映画「やるせない青春」「八個出さん」等。

 

【昭和55年4月】
東海大学教養学部生活学科生活経済学課程入学。1年生の時に青森県八甲田山にバイクで 1人旅に出かけ、様々な最色、人々のふれあいに出会う。(以後毎年秋にツーリング)
東宝映画「連合艦隊」にエキストラとして出演。故鶴田浩二に大和出撃の晩に落ちかけている毛布を掛けてもらう役。
卒業論文「地場産業としての箱根細工の付加価値率と損益分岐点」
☆小田原の地場産業が抱える問題点の提起と木材の共同購入や付加価値の高い商品開発等の提案。

 

【昭和59年4月】
衆議院議員故かめい善之(元運輸大臣・元農林水産大臣)事務所に名簿担当秘書として入所。
捲土重来を期して代議士と秘書、後援会員全員一丸となり、再選された昭和61年の選挙は思い出が沢山あります。<7~8キロ痩せました>

 

【昭和59年4月】
小田原市消防団第22分団第3班に入団。(平成7年3月までの11年間務める)

 

【昭和62年3月】
事務局が置かれていた明治神宮崇敬会平塚支部の事務局長に委嘱されました。
この間平塚事務所にて中郡大磯町、二宮町、足柄上郡中井町、大井町、松田町、山北町、開成町の地域担当秘書となりました。

 

【昭和62年12月】
事務所に勤務していた家内と結婚。媒酌人はかめい善之代議士夫妻。
現在1男1女(10歳と13歳)

 

【平成4年4月】
小田原市城山にありました小田原事務所に移り地域担当も南足柄市が加わり1市7町の担当となって大忙しの毎日となりました。

 

【平成6年12月】
10年8ケ月、秘書として勤めた亀井善之事務所を退職し、小田原市議会選挙出馬を決意。

 

【平成7年4月】
神奈川県警小田原署長より少年補導員を委嘱。橘北地区青少年健全育成協議会委員。

 

【平成7年4月】
小田原市議会議員選挙初当選。32名の定数に34名が出馬。31番目のブービー賞で辛くも当選。得票1865票。

 

【平成7年5月】
所属会派「緑志会」福祉文教常任委員会委員。少年院等移転問題特別委員会委員。中小企業小口融資審査会委員。小田原市立病院協議会委員。議会だより編集委員会委員。

 

【平成7年6月】
小田原市議会6月議会。初登壇により一般質問。

 

【平成9年5月より】
少年院移転問題特別委員会副委員長
議会だより編集委員会副委員長
議会運営委員会委員
議会運営委員会副委員長
福祉文教常任委員会副委員長
少年補導員監査等歴任。

 

【平成11年4月】
小田原市議会議員選挙2期目の当選。32名の定数に35名が出馬。30番目と1つ順位をあげる。得票2009票。

 

【平成11年5月】
総務民生常任委員会副委員長

 

【平成12年3月】
小田原市立下中小学校PTA副会長

 

【平成12年5月】
総務民生常任委員会委員。青少年問題協議会委員。自転車等駐車対策協議会委員

 

【平成12年6月】
橘北地区青少年健全育成会副会長

 

【平成12年11月】
公営企業特別会計決算委員会副委員長

 

【平成13年3月】
小田原市立下中小学校PTA会長
この年の6月に忌まわしい大阪池田小学校での児童殺傷事件が発生。学校もPTAも総力を挙げて児童の安全管理対策に奔走。懸案だった学校正面玄関の門の設置、こども110番駈け込み所の自治会への依頼等、総会にて決定していた行事と併せて忙しい一年を送った。
当学校において何事も無かったことが救いであった。

 

【平成13年4月】
小田原警察署委嘱少年補導員(4期目)
小田原市PTA連絡協議会幹事

 

【平成13年5月】
経済厚生常任委員長。議会運営委員会委員。小田原市清掃協会理事。小田原真鶴道路建設促進協議会委員。広域営農団地農道整備事業小田原湯河原線推進協議会委員。小田原漁港振興協議会委員。小田原市観光協会理事。経済厚生委員長は、福祉文教委員長と共に充て職が多く、毎月何かしらの協議会が行われていたような気がしました。

 

【平成14年4月】
小田原警察署少年剣道推進会会長
(仮称)小田原アマチュアボクシング協会設立準備会会長

 

【平成14年5月】
小田原市監査委員(議会選出)

 

【平成15年4月】
小田原市議会議員選挙3期目の当選。30名の定数に32名が出馬。15位当選。得票2541票。
下中地区こども会少年ソフトボール「下中シャークス」理事。この一年、毎週日曜日には早朝よりグランド整備。冷夏という事もあり、日焼けに苦しむ事はなかったが、寝不足の毎日。

神奈川公安委員会少年指導員委嘱

 

【平成15年5月】
都市建設常任委員会委員
小田原駅前の動向については、予算関係は常任員会で、それ以外は小田原駅周辺整備問題調査特別委員会で協議するという形となった事で、常任委員会が骨抜きになった感が強く、不満が多い2年間であった。常任委員会の権限強化が必要な中、それに逆行した形となったことは寂しい限りである。

 

【平成15年6月】
スパウザ小田原問題特別委員会委員
雇用保険の資金濫用により全国的に騒動となり、雇用促進事業団による施設であった「勤労者リフレッシュセンタースパウザ」を小田原市が買い取りべきか否かを議論する委員会が発足し、短期集中審議によって議会の方向を示した委員会は、とても充実した特別委員会として評価できる委員会であった。

橘北地区防犯協議会副会長

 

【平成16年4月】
小田原市立橘中学校PTA副会長
就任一ヵ月後に副議長就任が決まり、役員をはじめ会員にも忙しさゆえ迷惑をかけてしまった。できる限り運営委員会や行事にも参加したつもりだが、アット言う間に駆け抜けた一年であった。

 

【平成16年5月】
小田原市議会副議長
就任当日から次から次へと入ってくる予定に、手帳は落書き状態。当然頭の中には様々な予定が入りきれないため、明日の予定は前日に確認する始末で一年を過ごした。
他市との交流や各業界、団体との接触も多く、何と言っても夜のお付き合いは身体を壊すよりも生活のリズム、家計を圧迫する会費に泣かされた。

 

【平成17年5月】
福祉文教常任委員
実に7年ぶりに福祉文教常任委員会に所属する。一期の時に4年間務めたわけだが、その間、介護保険制度開始や教科諸問題等、当委員会での審議は非常に重要だと思う。4名の女性議員の内3名が問う委員会に所属する事となった。

 

【平成17年9月】
平成16年度決算委員会委員長
各決算委員が所管を呼んだり、書類を調査したりしてる中、決算委員長は総括質疑も出来ないため、その場で聞き及ぶくらいしか出来ない。決算委員会に臨むには、いくつか焦点を絞って調べるようにしたほうが良い。

 

【平成18年3月】
橘橘北地区青少年健全育成協議会内に発足した防犯パトロール隊、橘ブルーアイズ隊長
3月16日に小田原署管轄では民間で初めての青色回転灯装着車によるパトロール隊が発足。7台の車で毎日当該地域内を巡回している。

 

【平成18年5月】
議会運営委員会委員長
臨時議会にて議運委員長に選任された。任期終了まで後1年足らず。最後まで全う出来る様努めたい。

 

【平成19年4月】
小田原市議会議員選挙4期目の当選。昨年末に定数を2減した28名の定数に33名が出馬。26位当選。得票1957票。

 

【平成19年5月】
会派「フォーラム21小田原」代表
会派人数9名の大所帯で最大会派となる。議長、副議長、議運委員長を擁する。議員は各個人とても個性が強いことはだれもが承知していることであり、それらを纏めることが出来るか責任が重い。

 

【平成19年7月】
小田原市民生委員推薦会委員に就任。
今年が改選期を迎えることから、推薦会が何度か開催される。

 

【平成20年5月】
会派「至誠」結成。
一年間代表をしていた会派「フォーラム21小田原」より脱会し、同会派の4名に、1名を加えた5名により新会派を結成した。

 
【平成21年4月】
14年間務めた県警少年補導員を退任した。議員初当選より数日早くに委嘱されたこともあり、かなり長く務めてしまったなあというのが感想である。地域にはいろいろな経験をもった人が多くいたほうが良いのであり、10年以上も関わっていくのは良い面と悪い面の両面持ち合わしていると思う。現在の防犯活動もある一定の見切りが出来た時点で後に譲ることも判っている。地域で出来ることは地域が一丸となって取り組んでいくことが望ましい姿である。

 

【平成21年5月】
5月臨時会を前に、会派「至誠」を解散し、新たに「フォーラム小田原」が結成された。会派構成は9名である。
議長選挙において立候補表明。選挙結果は2票足らずに次点に終わった。

 

【平成21年7月】
姉が亡くなった。享年49歳。父と同じ脳梗塞であり、意識が一時的に回復したものの、脳幹への閉塞が死因となった。娘に先立たれた母の気持ちを察すると想像し難い悲しみであると思う。入院している父に文字で報告したが、果たして理解したのだろうか。議会開催中でなかった事は、姉が日を選んだのだろうか。

 

【平成21年8月】
議長の諮問機関として「議会基本条例検討委員会」が発足し、委員長に就任。条例制定ありきでの議論となってはいけないし、議員間でもその必要性の是非については意見が分かれているのが実情。代表二元性の本質に基づき、議会の基本的な姿、住民に映る議員、議会の姿等を検証しながら議論を深めるべきだと思っている。委員間のフリートークの場、オープンスクエアへの参加、住民アンケートの実施等、従来手法にない取り組みを行っていると自負している。

 

【平成22年5月】
会派「至誠」の再結成。1年間所属していた「フォーラム小田原」から分離して再び「至誠」を5名の議員で構成した。

 

【平成22年5月】
昨年に引き続き総務常任委員会に所属。総務常任委員長を拝命。耐震補強工事が行われている市民会館と、土地拡張によって建設を目指している市民ホールの兼ね合いがポイント。今年度もその動向が注目される。

 

【平成22年6月】
会派構成の変更により議会基本条例検討委員長を辞したが、再度任命された。住民への無作為抽出によるアンケートが実施され、その集計作業も委員によって行う等、今迄にない手法を試みている。

 

【平成22年11月】
会派の同志であり、同期の相澤議員が逝去。数々の思い出を胸に逝ってしまった友を偲び、12月議会の初日には代表して弔辞を述べさせていただいた。もっと話をしたかった。誠に残念である。

 

【平成23年3月】
父 昭司が死去。2年前に脳梗塞となり、言語障害、歩行困難となった。持病の糖尿病治療もあり、総合病院に5ケ月入院後、自宅にて母が介護。母も父の入院直前に心筋梗塞で手術をしており無理がきかず、7ケ月の自宅介護の後に、父は再入院。山近病院から湯河原中央温泉病院に入院したが、腸閉そくで再度山近に入院。薬治療で再度湯河原に戻ったが、腸の癒着があり腸閉そくで亡くなった。享年81歳。

 

【平成23年4月】
小田原市議会議員選挙にて5期目の当選。前回の票を849票上回り、2806票をいただいた。7番目という順位は誰もが驚いた。
選挙により会派構成も新たに行うことになり、武松、大村、小澤、井上の4氏とともに会派「誠和」を結成。
最年期数ということもあり一時代表になるが、直ぐに武松議員に交代。

 

【平成23年5月】
小田原市議会臨時議会において、第59代小田原市議会議長に就任。
(同時に神奈川県市議会議長会会長、全国競輪主催地議会議長会会長職に就く)

 

【平成23年6月】
神奈川県市議会議長会総会にて征木茅ヶ崎市議会議長に会長職を交代

 

【平成25年5月11日】
衆議院議員「牧島かれん」神奈川17区地方議員連盟会長

 

【平成25年5月】
小田原市議会議長を辞任

 

【平成26年5月】
建設経済常任委員会委員長就任
会派 誠和代表

 

【平成27年1月】
小田原市議会議会改革検討委員長解任

 

【平成27年4月】
小田原市議会議員選挙にて6期目の当選。

 

【平成27年5月】
会派「誠風」結成。代表に。

 

【平成29年5月】
小田原市議会臨時議会において、第62代小田原市議会議長に就任。
(同時に全国市議会議長会「国と地方の協議の場に関する特別委員会」副委員長、全国施行時特例市議会議長会会長職に就く)

 

【平成31年4月】
小田原市議会議員選挙に7期目の当選。

 

【令和元年5月】
会派誠風が新人議員3名を加えて9名でスタート。小田原市議会最大会派となる。
会派代表者。厚生文教常任委員。

 

【令和2年5月】
所属委員会を変更し、建設経済常任委員に。

 

【令和3年10月】
議会改革検討委員会委員長。

 

【令和4年5月】
総務常任委員会委員長。