平成23年 3月
2018年05月09日
平成23年3月31日(木)
知人より紹介していただいたところを訪ねたりした。明日から県議会議員選挙が始まるのだが、未だポスター等がそのままの状態になっている箇所が目立つ。この大震災によって各地区では選挙ムードが盛り上がらないと聞くが、確かにどの陣営としても戦い方は難しいだろう。
平成23年3月30日(水)
次年度連合自治会長より、地域における諸課題について経緯等を聞きたいとのことで会長宅を訪ね、話しをした。21単位自治会の内、20自治会の会長が新任ということもあり、引き継ぎを行ったとはいえ詳しい内容を知りたかったようである。
数年前は、自治会定例会にもオブザーバとして出席していたこともあり、その頃は行政と地域の諸問題の両面を見ることができたのだが、最近はその会合に呼ばれることも無かったので地域内の出来事は完全に掌握していない。
先の地域別計画等も、細かいことではなく今後の橘地域全体の課題(例えば橘南北の統合の可否等)についても議論を重ねていく必要があると考える。
平成23年3月29日(火)
総務委員会正副委員長が充て職となっている審議会についての会議に出席した。本日は雨の心配もないので役所に自転車で行き、そのまま次の予定会場である御堀端に出た。我が会派は相澤議員の死去により3名となったが、今期限りで飯山議員が引退を表明されており、飯山議員のねぎらいを兼ねて最後の会派懇談会を持った。
飯山議員へは12年の労苦への握手、武松議員とはお互い当選しようとの握手をして会派解散宣言を行った。
平成23年3月28日(月)
午前中は息子が居たので運転を託し、役所や銀行、文具屋等を回った。午後からは市政報告紙の印刷や葬儀資料の整理及び葬祭費の支払いを行った。父が亡くなって20日が経過したが、バタバタとしていたため、既に遠い過去のように思える。税関係の申請は提出したが、年金関係の書類もここでようやく整ったので明日あたりには申請できそうだ。
平成23年3月27日(日)
本日は選挙管理委員会が小田原市議会議員選挙時の立候補申請作業がスムーズにいくよう事前の審査を行う日である。午前中に再確認して午後3時の順番を待つ。およそ15分遅れで審査開始。各用紙の中での訂正点は、住所の「番地」が記載していなかったため追記程度で済んだ。選挙公報もクリア。公費負担分はポスターだけなので簡単だ。
後は、当日の朝に書類を提出するだけでOKの状態である。
平成23年3月26日(土)
午前中はポスター及び選挙はがきの原稿、写真の依頼。ポスターに追加する写真は朝方出かける30分前に撮影した始末で、本当にアタフタしての準備である。その後知人の店を訪ねると、東北地方太平洋沖地震の義援金協力にと木製ストラップを販売しているという。その購入費は全額赤十字社を通じて被災地に送るというもので、本日タウン誌に掲載されていたためか電話がひっきりなしにかかっていた。来訪され購入されていく客もおり、タウン誌掲載の効果は絶大であることをあらためて知った。
夕方は自治会連合会総会に出席。殆どの単位自治会長が入れ替わるという本年度であるが、当地区の課題としてコミュニティバスについての話題が提供されると、出席者から色々な意見が出てきた。既に2回の勉強会を重ねているのだが、どれもそこで情報を提供した件であり、是非とも次回の勉強会には出席してもらいたいとお願いした。
平成23年3月25日(金)
午前中は知人とのアポイント。昨日閉会した定例会資料も机に乗ったままで整理すら出来ない状況である。
さて、昨日の各議案採決に臨んだ自分の意見を記載する。
先ずは一般会計における地下街再生に関わる修正案であるが、私自身も事業主体が市となることは、議会が行政に要望した内容とは違うものと認識している。JRが事業主体とならなかったことは採算面で何かしら心配があるからであり、そのリスクを市が背負う必要があるのかとの疑問を当然持つものである。幾度かの折衝を重ねての結論であり、JRとの関係が悪くなることを避けたいこともわかる。
この問題を御破算にした場合、それでは何をするのかとの提案が明確でない今、行政は腹を括って市が事業主体になるとの結論を示したとのであるから、それでは市の施設として現在課題となっている様々な問題(図書館移転、展示ホール)解決に地下街を利用したら良いという議論を代表質問でしてきた。だが、行政はそのつもりが無い様なので、果たして現在想定している再生計画が事業内容次第で本当に採算の取れる、二度ではなく三度同じ轍を踏むことのない計画となるのか否か、委託してみないとわからないことであり、本予算は承認する立場である。
次に、まちづくり会社への出資金であるが、予算委員会での質疑にもあったように、本会社設立際しての情報が余りにも乏しい中での審査となったことは確かである。資料請求によって会社の趣意書が提示されたが、たとえ小額であっても今後の地下街再生に関わる重要な部分でもあり、「まちづくり会社」への理解を得るには至らない状況である。予算は予備費に振り替えて、いつでも補正を組める状態にしておきながら、「まちづくり会社」の事業内容等の詳細な情報提供と併せ、誤解の無いよう他の出資者や役員等との懇談会を持つなどの時間が必要だと思い、予算委員会修正案を支持した。
自治基本条例については、時間をかけて条例案作りに関わってきた職員や、各会合に参加された委員会の方々、市民の皆さんには敬意を表するところであるが、やはり内容面で他市条例に比してソフトな印象を与えるが、どの自治基本条例でも見られるように、本条例が他条例の上位に位置づけられているような印象と、住民参画の強制のような感を持ってしまうようにも思えて、多くの住民がどうしても必要な条例だとは率直には思えないのである。特に、住民投票について明文化することで、拡大解釈が結果的には議会制民主主義という二元代表制を否定し、直接民主制に移行しようとする意図も隠れていないとも限らない。
自治基本条例は、一時は各自治体で急速に条例化してきたが、そのことで行政と住民の関係が良好になったとか悪化したとか、そのような話も聞いたことが無く、時間と労力を割いてまで作らなければならない条例だとも思わない。矢先に起こった大災害を目の当たりにして、優先順位からしても採択する必要が無いと判断して動議修正案及び予算委員会修正案の双方共に賛同しなかった。
その他の議案については、概ね賛同することと、平成23年度予算執行が順調に進むことを願うことから、賛成の意思表示をした。
以上、昨日の各議案における意見を述べたので、アンケート等をされる団体がありましたら参考にして下さい。ただ、それに対する質問等は直ぐにお答えできない場合がある事をご承知下さい。
平成23年3月24日(木)
昨日の議会運営委員会で本日の3月定例会最終日の日程を10時開会でなく、13時30分とした。午前中、事務所に居たところ、来客があり懇談。昼休み時間は会派打ち合わせを行い、本日の会議要領についての説明を聞いた。
最終日は、先ず予算委員長より委員会報告があった。その後、昨日一般会計に関する修正案が出されたためにその提案理由説明、質疑、討論の後に採決を行い否決された。次に予算特別委員会の修正案についての採決があり、これは可決。本修正案以外の一般会計予算案の採決も可決となった。続いて自治基本条例についての修正案が出されており、同じく修正案は否決、予算特別委員会の修正案は可決し、修正個所を除いた自治基本条例案も可決された。続いて上記を除く23案の採決があり、賛成多数で可決となった。残る追加議案の審査を終えて、議長より、議員任期を迎えるに当たり執行部及び各議員へのねぎらいの言葉をもって、3月定例会は閉会した。
この最終日における各議案の賛否については、関心を持たれている方も多いと思う。自分は自分なりに判断して採決に加わったと自負しているので、この記載は明日とする。
アッと言う間の4年間であった。本日より知事選挙が告示されたが、各陣営は自身の選挙準備活動に突入する事だろう。今回は新人の方が今までに無く多い様なので、気を引き締めて活動することを心に誓った。
平成23年3月23日(水)
今朝は雨が降りそうだったが、午後から雨らしい。公立小学校一斉の卒業式が行われるのだが、今年は割り当てで隣の前羽小学校である。自転車で行こうと思ったが、雨が降ると厄介なので原付で小学校に向かう。隣の自治会なので、何人も知り合いがおり、話をしながら開式の時間を迎えた。卒業生29名。しかし、式は1時間45分の予定だ。卒業証書をもらった子は、6年間の思い出や中学進学の抱負、両親への感謝の気持ちなどを一言づつ述べ、小規模校ならではの光景であった。
毎年、この時期になると言っているかもしれないが、「別れのことば」はいらないのではないか。卒業生から見ればこの6年の行事や出来事を思い出すのかもしれないが、何か作られた文章のように聞こえ、それでまた毎年同じ文言のようにも聞こえる。
様々な別れの歌の歌詞から導かれた思い出や感謝の気持ちを頭の中で創造すると、自然と涙が流れてきた記憶がある。言葉では表すことの出来ない自分なりの感動である。
卒業生を真正面に向けるのも酷だ。親のビデオカメラに収めるための式では無いし、第一恥ずかしいと思う(少なくと、自分はそうだ)。
どこの学校もそのような形態をとっているようだが、違う形態をとっているところがあれば教えていただきたい。
式典終了後、午後1番に会議があったので、控室に戻ってすぐに出かけた。1時の会議、その後30分後には予算委員会委員長報告書の検討会議があり、バタバタした。
帰宅途中には印刷所に寄ってポスター、ハガキの相談。東北地方太平洋沖地震の影響でインクの調達が厳しいらしい。ここにも地震の影響が出ているとは・・。大変な事だ。
平成23年3月22日(火)
朝から雨が降っている。選挙書類事前審査が27日にあるので、それまでに準備として法務局に行って供託してこなければならない。前回は受付窓口に3名程先着があったのだが、本日は誰も居なかった。駐車場は満杯だったが、家内が休みだったので車を路上に停め、待っていてもらった。その足で横浜銀行に寄って供託金を納めてきた。他、2件の用事を済ませながら、スーパーに立寄ると、自分と家内の携帯からまたも地震予知情報が流れた。と、同時に揺れが始まった。
帰りがけに住民票や戸籍抄本を支所で取り、書類作成作業を行う。まだ、選挙公報すら出来ていないし、ポスターや選挙はがきも注文していない。明日は小学校の卒業式だが、午後に印刷所に寄って行こう。延々と書類作成作業を夜中まで行っていた。
平成23年3月21日()
昨日の作業は家内に任せ、こちらは先日受け取った選挙事前説明会の書類への記載等を行った。午後はアポイント一件、来客も2件あり、普段と同じく作業をしながらの対応となった。昨日は風が激しく、事務所のルーフのポールが倒れてしまった。今日も時折激しく降る雨と風に悩まされた。被災地の状況も心配されるが、今日の新聞では10日ぶりに80歳、16歳の人たちが救出された報道があった。まさに奇跡の生還である。まだ他に生存している人が居るかもしれず、消防をはじめ救援隊への期待が一段と増す一方で、プレッシャーも与えてしまうかもしれない。懸命に救出作業に専念される皆様に感謝と敬意を表してやまない。
平成23年3月20日(日)
朝から事務作業に追われる。来客が次から次へと来られたが、作業の手を止めてしまう時間的余裕がなく、失礼ながら作業をしながら話をした。昼ごろには看板設置の為に息子と共に設置宅を訪ねて無事設置することが出来た。
午後からも家内は自宅で、私は事務所にて作業を継続した。そう言えば、先日の説明会でもらってきた申請資料も手掛けなければならない。更には父の葬儀の後片付け整理もしなければならず、机の上には色々な資料が山積している。
平成23年3月19日(土)
朝、事務所に来てみるとFAXが届いてた。東北地方太平洋沖地震の被災者の受け入れを決め、小田原アリーナを開放するという。定員は1000人。昨日は福島県いわき市の11人が宿泊したという。各自治体で受け入れ態勢についてボチボチ出てきたが、本市の素早い対応は評価できる。この数日、友人との話でも、被災者の中で、特に津波で家も財産も流されてしまった方々は避難所での生活の後でも仮設住宅住まいとなることは必至であり、かつ、それが何時頃までに入居できるかもあれだけ壊滅的な状況では推測できない。政府は各地方自治体に受け入れの依頼をして、それに伴う財源は国が責任を持つくらいの気概を持って事に臨むべきだと思っている。小田原も地震が絶え間ないが、少なくとも現地での生活はもう限界の方々も居られるに違いない。
本日も地震があった。本当に怖い毎日である。
平成23年3月18日(金)
本日は公立幼稚園の卒園式。今日も冬のような寒さだったが、自転車をこいで幼稚園に向かった。控室での話題はやはり計画停電の話である。様々な混乱を呼んだ計画停電であり、いつになったら終了するのだろう。
卒園児は男女合わせて28名と、本当に少ない。それも男児11名、女児17名と男児が少ない。これじゃあ小学校にあがって、何もしなくても少人数学級編成だ。子作りの為に、日本全国、夜を一斉に計画停電した方が良いかもしれない。
午後はアポイント2件に対応したが、今日も丁度停電の真っ最中であり、信号も停まってしまっている。文房具店に予約している品をもらいに行ったところ、やはり停電で閉まっている。これで3度目である。夕方1件の用を足し、ようやく文具店で注文の品をもらうことが出来た。
平成23年3月17日(木)
予算特別委員会の総括質問日。計画停電の為、1時間早い開会。午前中4会派の質問が終わり、順調である。午後から3会派の質問、我が会派は最後の質問である。一定の質問が終わり、休憩を取ったところで停電となる。採決を一括とするか否かでそれぞれ意見が分かれ、また、修正案提出を示唆する委員もあったことから、断続的に再開、休憩を繰り返す。再開して修正案の動議が4本だされ、それぞれ採決に入った。結果的には自治基本条例議案及び一般会計予算のまちづくり会社予算の修正案が賛成多数で採択された。長かった予算委員会も大詰めとなり、後は委員長報告を残すのみとなり、散会した。
帰宅途中で、育成会会合がある事を思い出した。もう7時である。遅参することをメールして定例会に出席した。
平成23年3月16日(水)
午前中は、明日の総括質疑内容を検討。午後は4月統一地方選挙説明会に出席した。各陣営3名までとの話だが、いつも事務作業は自分で行っているため別に一人でも構わないが、お付き合いで友人が来てくれた。地震により機材が入らないために奔走している友人であり、疲れているようだ。途中、居眠りしていたがそっとしておいた。
次の予定まで2時間半もあるため、それまでに終わるだろうと思っていたが、3時40分を過ぎても終わらない。初出馬の陣営が多いとは言っても、これは長すぎる。事務的に複雑なのは公費負担の部分であり、それ以外は冊子を読めば大抵わかるし、その資料も3部づつ用意しなくても1冊あればよい。3部必要なのは「選挙公報用紙」だけで十分であり、それ以外は自分達でコピーすれば済むことだ。決算時にチェックしなければならない。
時間ぎりぎりでアポに間に合った。帰りがけにトイレに行きたくて役所のトイレを拝借。その後けやき通りを走っていたら突然街灯が消えた。停電だ。交差点の信号も消え、譲り合いながら走って西湘バイパスに入る。酒匂あたりまでは停電らしく街灯も消えていたが、小八幡辺りでは停電していないようだ。自宅に戻っても停電が無かったと聞く。
平成23年3月15日(火)
本来は予算特別委員会現地視察の日であるが、11日の地震によって延期となっていた土木費、下水道費、消防費、水道費の審査を行い、その後現地視察予定であった箇所の説明を聞いた。これですべての審査が終わり、後は総括質疑を残すのみとなった。葬儀の為全部の所管説明は聞けなかったが、質疑した部分だけでも総括で質さねばならない。総括の日まで時間が無いので、質問項目を取り敢えず所管に渡しておいた。
夜、自宅の2階に居ると、またもや大きな地震がきた。午後10時31分。静岡県東部を震源とするM6.0の地震である。小田原は震度5弱。11日の役所で感じた地震よりも規模は小さく感じた。事務局から連絡が入るかも知れないと電話を待ったが、一向に連絡がないので、青パト車で地域内を巡回した。0:00時近かったため車の通りも少ない。道路やブロック被害も特に異状がなく帰宅した。
平成23年3月14日(月)
予算特別委員会の今日は教育費である。学校教育を中心に質疑をしたが、今や小学校のトイレ掃除は児童にさせている学校は0校で、すべて用務員にさせているという。一体どうしたことか。また、教科用図書の検討委員会へ教育長が諮問する立場であるのに、教育長をはじめ教育委員が検討委員会の委員であることはおかしいのではないかと指摘したところ、教育委員会も認識しており、直すとの答弁をもらった。これらの問題は、総括質疑で再度行うことにした。
平成23年3月13日(日)
夕方に出席予定の大会が地震のためにキャンセルとなった。他のイベントも軒並み中止になっているという。おまけにガソリンスタンドの渋滞や首都圏では買占め騒動が勃発しているという。ガソリンは11日の地震発生日に燃料が少なかったために給油しておいたので満タン状態であり心配がない。聞くところによると、1時間も並ぶ列が続いているという。首都圏パニックにならなければよいが・・・。
昨日録音したレコーダーで地域内巡回を行った。
平成23年3月12日(土)
昨日の大地震の情報が次々と入って来る。死者、行方不明者も未だ数がわからないらしい。津波の映像も様々な地域で相当な被害のようだ。壊滅した街が画面に映し出される。昨年訪れた南相馬市も大変な被害らしい。
小田原市も余震があり、住民への防災啓発の為の広報をしようと、女性隊員に連絡をとり、MP3レコーダーに録音してもらった。
夕方ではあったが、隊員3名が録音追加のため事務所に来られたので、手持ちの機器へ追加作業を行った。
平成23年3月11日(金)
午前中は小田原地下街予算の集中審議。都市部関係の予算審議は午後にもわたって審査された。建設部関係審査が始まる事には2時半を過ぎており、部長の説明が終わったところで小休憩をする事にし、建設部長の説明の最中に、突然大きな揺れを感じた。はじめはユラユラと揺れた程度であったが、次第にその揺れはひどくなり、委員長も慌てて休憩を宣言。天井からは伝統のビスが一本落ちてきた。災害放送テレビでは津波警報が報道されていたが、震度や発生個所も良く解らない。一報では震度5弱ということもあり、行政は災害対策本部を設置。所管も本部設置ということでは審査も出来ないことから議長より散会を指示し、委員長より本日の委員会散会が告げられた。
議会においても災害本部設置のマニュアルに沿って各議員への連絡が始まったが、大津波警報も発令され、交通もマヒ、渋滞も予想されたことから庁内に居た議員も一旦帰宅し、その後の連絡を待つことにした。
車を走らせ、FMおだわらを聞くと、西湘バイパス、小田原厚木道路も不通とのこと。成田付近では水道管が破裂しているとの情報。道路も渋滞し始めており、国道1号の渋滞を避け、小田原大橋から巡礼街道、国府津から田島広域農道を通って地元に入った。役所を出て既に30分近く経っているので小学生は殆どの子が下校しているだろうと思ったが、パトロール装備をして小学校周辺を巡回した。自宅付近で隊員を見つけ、そのまま同乗してもらい地域内を一周した。幸いがけ崩れなどは発見しなかったが、それは本当に大きな地震だった。
東北地方を中心に、死者も多数出ているようだ。千葉では石油コンビナート火災が発生し、さながら空襲された都市のようである。津波被害も確認されており、大災害となってしまった。時折、余震もあるので今日は眠れない一夜を送りそうだ。
平成23年3月10日(木)
本日も予算委員会が再開されているが、午前中は寺院へのお礼をはじめ、通夜、告別式に参列できなかった方々が弔問に来ていただいたことから、それに対応。母も出かけてしまったために午前中は弔問客への対応に追われた。
午後からは予算委員会に出席。経済部関連の審査が行われていたが、疲れが出てきたのか睡魔に襲われ、さらに花粉で目がかゆい。花粉に苦しみながらもちゃんと仕事をしなければならない。定時前に散会となったため、死亡に伴う各手続きの為、いくつかの窓口を訪ね、手続きを行った。
平成23年3月9日(水)
本日は父の告別式。火葬場までの車の手配や忌中払いの人数も完全に把握している訳ではなく、不安が混じりながらも葬儀が始まった。住職の経の中に父の生前の足跡や人柄何度も織り込んでいただいたお経が続く。静かに眠っているような父の顔が見れるのもこれが最後だ。花を添え、父の好きだった「イチゴ」、書道筆セットなども棺桶に入れ蓋が閉められた。遺族、親族を代表して施主である私が御礼のあいさつをする番となった。父の経歴を淡々と語ったが、16年前に自分が初めての選挙の時に、まだ手術間も無い父がイ社の制止を振り切って退院したことを語り出した時に声が詰まってしまった。息子の事を心配してくれていた父にあらためて感謝したい。
その後、火葬場で荼毘にふされ、初七日を菩提寺で執り行い、墓地に埋葬。忌中払いの後に帰宅した。長い様で短い、短い様で長い一日だった。多くの会葬者に送られ、父は旅立った。大声で喧嘩もしたし、取っ組み合いもした。果たして親孝行をしてきたのだろうか、親不孝だったのだろうか、答えてくれる父はいない。大酒飲みで、喧嘩早くて、ベロンベロンに酔って帰ってきた父もよく知っている。だから酒を飲んでだらしない姿を見せる父が嫌いだったが、今は自分が息子によく言われている。自宅に戻り、ネクタイを緩めると、途端に酔いが廻って来るのである。反面教師になっていたと思ったのだが、そんなところも父に似ているのかもしれない。親の死は誰しも避けることは出来ない。父が生前よく言っていたように、これも運命、天命、宿命なのであろう。
平成23年3月8日(火)
本日は通夜があるが、一通り段取りは終わったので午前中だけ予算委員会に出席した。同僚からは「大丈夫かよ」と言われたが、弔問客対応は母が居るし、家内も休みを取ることが出来たようだし、何とかなる。
今から20年以上前の映画だが、「小説吉田学校」の一場面を思いだしている。日米講和条約締結のため、官僚にその文章を起案させ何度も提出させるのだが、吉田首相は首を縦に振らないどころか、時にはその文を破り捨てる。官僚の3人は、缶詰状態の中で草案のOKが出るまで議論し、徹夜の作業を行う。一人の官僚(神山繁)が親の死亡電話を受けたが妻に喪主を頼み、自分は草案作りに没頭。ある日、提出された文章を見た吉田首相は「よく出来ている。ありがとう」と礼を言い、官僚たちは涙を浮かべる。というシーンである。
自分もそれが出来るか、時々考えたりもしたが、やはり出来なかった。自宅に戻っても地に足は着いておらず、そのまま通夜の会場に向かい、弔問客を迎えた。菩提寺住職にお経をあげていただきながらも、父を思う前に明日の告別式の段取りが気になる。通夜ぶるまいで親戚や受付手伝いをしてくれた方々に礼をしながら廻る。義兄は遠くから来てくれていたので、会場で一泊してもらった。明日を思いながらも、ぐっすりと眠ってしまった。
平成23年3月7日(月)
朝4時に電話が鳴る。家内が電話に出て代わると、やはり父が入院している病院からだった。現在血圧が低下しているという。母も起きてきて直ぐ病院に向かう準備をする。二度目の電話が鳴り、心臓マッサージ中だという。
病院に急ぐ母も私も父の死を受け止めていた。病室では女医さんが心臓マッサージ中で、もう一時間近く行っているという。一向に反応もないとのことで、「もう結構です。ありがとうございました」と礼を言い、死亡が確認された。3月7日、午前4時53分。父は永眠した。満81歳。脳梗塞で入院してから約2年の闘病生活であった。
本日も予算委員会が続いているので出なければという思いはあるのだが、葬儀終了までの段取りを年老いた母に任せる訳にはいかず、事務局に本日は休む事を連絡した。
死亡診断書をもらい、ひと足先に自宅に戻って父の帰宅を待った。一度入院してから7ケ月の間は自宅で介護したが、その後糖尿病手術のため再入院してから約1年ぶりに我が家に戻ってきた。葬儀社に電話をし、打ち合わせ。住職を呼ぶのと何人かに死亡通知を同時にしてしまったため、枕経の最中に弔問客が来られ、待っていただくことにもなってしまった。通夜、葬儀日程を住職、葬斎場、火葬場全ての日程合わせをしなければならない。日程は明日に通夜、明後日に葬儀を執り行うことを決定したが、慌ただしく時が過ぎ、電話連絡も夜11時頃まで続いてしまった。父の死を悲しんでいられない、ただアタフタとしている自分がいる。
平成23年3月6日(日)
このところ、早朝ツーリングもしていない。寒い日が続いていることだけではなく、気持ち的に乗れないのである。朝から色々な用事が出来てしまうこともその一因だ。本日も朝から来客があり対応。明日も委員会があり、その質疑準備もしなければならない。
平成23年3月5日(土)
後援会連絡看板を立ててくれる方が現れたのだが、既に余分の看板が無かったので業者に注文した。午後からは マロニエにてパネルディスカッションに出席した。タイトルは市民公開講座「グローバルな日本人を育てるためには」であり、「小学校英語の必修化に向けて」「なぜ日本人は英語を話せないのか」「就職難克服の鍵は英語にあり」の3点について、それぞれのパネリストがディスカッションを行うという内容である。
コーディネーターは(社)かながわ民間教育協会理事の牧島かれんさん。パネリストは相洋中学校長、小田原市教育委員会指導主事、子供の教育を考える会(塾講師)、湯河原町議(元教員)と市議会議員(私)の5名である。
私以外は教員経験もあり、明らかに場違いである。いや、私も学生時代に塾のアルバイトをしたことがある(とは言っても2ケ月ほどで子供に手を挙げてクビになってしまったが・・・。)
英語が大の苦手と告白してトークに参加したが、所詮英語に関心すら寄せなかった学生時代を振り返るだけで、参加者の役には何も立っておらず、本当に私で良かったのかと自分自身、安請け合いした事を後悔している。
平成23年3月4日(金)
予算委員会初日。本日より委員会が始まった。委員より小田原地下街と自治基本条例については集中審議したらいかがかとの提案があり、各委員異議なしでそのような取り扱いをする事にした。自治基本条例は北海道ニセコ町を起源として全国的に広まってきたが、最近では余り話題にされることが少なくなっている。本市議会では議会基本条例検討委員会において、議会基本条例についてはその条例の是非について継続して議論するとともに、課題を検討し実行するとした経緯がある。間接民主制の否定要素を包含するとも言われている面もあり、各委員より様々な質疑が交わされた。
平成23年3月3日(木)
代表質問三日目。午後一番に質問を行う予定であったのだが、休憩時間が昼過ぎとなってしまったために1時からの再会とはならなかった。昨日、自宅で読み返したところ、第一回目の質問はだいたい25分程度だった。残り20分~25分あれば大丈夫なのだが、答弁の様子によっては延びる可能性もあり緊張してくる。少々の時間を残して終了したが、続く予算委員会にて詳細を質疑する項目を整理しなければならない。
本会議終了後、予算特別委員会が設置され、正副委員長が選任された。
平成23年3月2日(水)
代表質問二日目。 今日も二会派による質問を聞き、重複部分の確認を行う。既に昨日いくつかの項目について重複部分があり、その項は削除したが、まだ重なるところが皆無になったとまで言えない。会議終了後、現行の手直し作業を行った。
平成23年3月1日(火)
本日は代表質問1日目。3会派の質問は多項目にわたっており、新規事業及び施政方針全般についての質問であった。それにより、こちらが準備していた原稿を変更しなければならず、即刻議事録が出るわけではないので自分自身がよく聞いていないといけない。程良い緊張感をもって質問答弁のやり取りを聞いていた。