平成21年 7月

2018年05月08日

平成21年7月31日(金)
午前中は、父の様子を母と看た。ベッドの高さ、車椅子への移動。インシュリンや血糖値検査等、自分は何も知らないので母の様子を見ながら覚えた。これから毎日繰り返される定時での面倒は大変であることを知った。
午後からはアポイントがあったので対応する。その後、会合通知の配布や育成会資料を各戸に届けたりした。


平成21年7月30日(木)
今日は父の退院という事で、朝食時に母に「病院の駐車場が満車だといけないので、運転して行くから」と言っておいたのだが、いつの間にか母は病院に向かってしまった。自分が別の車で行った場合、駐車できなくなる可能性もあるので、家内に送ってもらった。退院は11時。まだ2時間近くもあるが、早めに病院に着いてしまったため父は「まだか」と不満を口にしている。4ケ月に及ぶ入院生活には飽き飽きしているに違いないが、この数時間は長く思えたのかもしれない。全ての事を理解しているようには思えないが、早朝、看護師に今迄の礼を述べたという。案外、頭はしっかりしているのかも。
病院からは介護車のストレッチャーで送ってもらった。久々の自宅での昼食の味はどうだったのだろうか。
午後には来客のアポがあり対応。その後役所に行って用事2件を済ませるが、介護用品の購入とそれらを入れる棚を購入するためエアコンの効かない軽ワゴンで移動したため汗だくになっており、事務局に寄ったところ汗まみれのワイシャツに驚いていた。
とにかく今日も暑かった。帰りがけに車にエアコンガス注入を依頼したが、古い車なので効くかどうかわからないと言う。お盆過ぎまで暑さが続くか判らぬが、このままだと車の中に居ても熱中症となってしまうようなので、とにかく依頼した。
夜には会合の書類作成を行った。


平成21年7月29日(水)
牧島かれん事務所開所式に出席した。栄町の事務所に伺ったのは2回目である。時間ちょうどに神事が行われた。その後、宮司、本人、河野前衆議院議長の挨拶の後に閉会となり、暫く出席者と歓談した。
午後からは、父の退院に備えて物置及び荷物を整理して処分することにした衣類や家財を、軽トラックに載せて久野の焼却場に持っていった。処分料は5000円以上したが仕方あるまい。まだ、整理すれば嫌と言うほど処分するものが出るに違いないが、今回はそれ以上は止めておいた。母はやはり昔の人なので、着なくなった衣類や布団が山のように保管している。あと50年以上は生きるつもりらしい。
介護用ベッドと車椅子が運ばれてきた。明日は父の退院である。果たして数カ月留守にしていた家に戻ってきた父はどのような思いであろうか。


平成21年7月28日(火)
総務委員会が開催された。余りにも盛りだくさんの内容の所管事務調査のため、余り事前の調べはしていなかったが、6月議会で修正案採決となった市民ホールについては、4月30日の議員説明会資料及び検討委員会の報告書等を取り敢えず持参した。
午前中は新総合計画策定や自治基本条例についての流れについての説明があり、いくつかの質疑を行った。午後は、市長自らが出席し、市民ホールについての発言があったが、議会説明会や6月の議論において行政側からの答弁と何ら変化があったようには見えなかったのでいくつか質問をした。
詳細は議事録が出来れば確認できるが、記憶をたどりながらであるが、先ず、6月に修正案提出に至った自分の中で解決されていない疑問を再度聞いた。
一つ目は、今回、図において空地エリア、低層エリア、高層エリアが示されているが、6月には土地拡張の理由が明確に表示されていない事が疑問の一つであった。かつ、施設内容を吟味すると、今の敷地ではその計画部分は到底収まらなくなる為にこれだけの土地の拡張が必要だとの見解が示されなかったことによる。
ならば、この図はいつ作ったのか?6月時点で出来ていたのか?との問いに、市長は「修正案採決後に庁内で調整して作成した」との答弁だった。
更に、拡張となる土地が、俗に言う虫食い状態となった場合の心配について伺ったが、これは行政側も自信があるようで、期限内における収得の可能性はあるとの答弁で終始した。
行政であれ、一般の家であれ、隣の土地を買いたいと思った時には、その理由が明確でなければならず、概算でもこのくらいの規模の部屋を設けるには、現状の土地では足りないので、あと数十坪必要だとか考えるに違いない。その上で全体的な面積を計算して話し合いに入る事が筋ではなかろうか。
それが、概算も計画内容も詰めていない段階で全体敷地面積だけを提示し、直ぐに関連予算を計上したことは果たして正しいのだろうか?少なくとも、6月時点では頭の中で描いた「機能配置を考えると、約3000㎡必要だなあ」位にしか思っていなかった事が露呈された。まさしく後付けである。
その後、駅前再開発の進捗状況を勘案すると、コンベンション機能をも兼ねた施設計画も視野に入れるべきではないかと問うたところ、後、他の2名の議員も同じような質問をしたことに驚いた。もちろん、これは市長の持論でもなく、受け入れるつもりは現在無かろうが、懸案事業でもあるお城通り再開発の状況を見据えた上で、提案したものである。更に、東電の敷地も行政側からは以前より拡張計画の一つとして取り上げられている経緯もあり、この際、移転計画を進めるべきではないかとの意見もあって、当計画については様々な議論が出されることになった。
自分は、今回の委員会で市長が出席し議論したことは良かったと思う。行政も議員も決して単に反発しているものではなく、様々なスタンスでこの場所に理想的な施設を作ろうという点での積極的な意見が出されたものと思う。


平成21年7月27日(月)
午前中は会派の打合せを行った。代表者会において提案された議会改革検討内容の精査等を議題とする内容であった。
本来は今日は大安の為、父が退院する予定であったが、介護用品の納入等が明日となり、30日に退院する運びとなった。車椅子ではどこまで移動するかわからないが、少々散らかっている部屋を掃除、整理して父の退院を待つことにする。


平成21年7月26日(日)
一日、コンテナの中の荷物整理に追われた。日中は炎天下であり、日陰に居ても熱中症になるくらい蒸し暑い。コンテナに入っている母の衣類や既に使用していない家財などを軽トラックに詰め込んだ。一度コンテナから出したものも、必要なものはまた戻す作業が待っている。母の衣類整理もまだ半分も終わらなかったが、今日はこの辺で止めておくことにする。水分を相当摂っても、殆ど汗で出てしまうくらいの陽気であった。


平成21年7月25日(土)
母と共に義兄に会いに千葉に向かった。49日法要の打合せ等を行い戻ったのだが、本日はいつものレインボーブリッジ経由ではなく、ベイブリッジを通る横浜経由で帰ってきた。保土ヶ谷バイパスで多少の渋滞にあったが、こちらから帰ってくる方が早いようだ。夕方は橘団地で納涼祭が行われ、パトロール日であったが、他の隊員に任せた。


平成21年7月24日(金)
梅雨が明けたというのに、本当によく降る雨である。机の横に入りきれなくなった資料が山積みされていることから、ロッカーの整理を行った。この数年活用していない資料を選別すると、棚の半分くらいが空いたので資料を入れることが出来るようになった。しかしながら、まだまだ整理が必要だ。
午後からは、来週開催される総務委員会の資料がレターケースにあると言うので議会に取りに行った。車の車検がまだ終わっていないので、今日は仕事が休みである家内に送ってもらった。資料だけ取りに行って直ぐに帰ってくる予定だったが、ロビーに同僚議員も来ていたので暫し歓談した。
夕方には車が車検から戻ってくるとの事。暫くぶりに乗った車であるが、タイヤ交換をしたせいかグリップも良くなったようで、なお且つ静かになったようだ。タイヤ交換も含んでなので車検代は相当高くついてしまった。


平成21年7月23日(木)
午前中は会議に出席。今日も軽ワゴンを運転。午後は、本日夜の会合用資料作成や衆議院選挙候補者のHPを検索したりして各陣営の主張などを研究した。街頭演説の模様などの動画をインデックスに貼り付け、各陣営とも工夫を凝らした造りである。政策の訴えなどは当然ながら、国家像や思想信条面等が明快に書き表されていてほしいものだ。
例えば、日米安保、対中、韓、北朝等への対応、我が国の核議論、景気回復への提言、現在の教育制度、教育内容、教科書問題、国旗国歌への想い、中国個人観光ビザ解禁、外国人入国規制等についての考えや尊敬する人物、座右の銘、大家族、核家族について、小選挙区制の是非、皇室、神話、靖国神社、国立追悼施設等、ご自身が人生を送りつつ培われた信条等の被歴を願う者である。政策などは時の情勢によって変化するものであるが、思想はそう簡単に変えられるものではないからである。
夜は育成会の定例会。他の会議と違って様々な意見がよく出る会議である。


平成21年7月22日(水)
本日は父の80歳の誕生日である。朝からケアマネージャー、訪問入浴サービス対応業者、機器レンタル業者等との相談を母と共に行った。父は先日介護認定がされ、要介護度5であり症状としては重い。最近は認知症の傾向も表れていると思われ、これから起こりうる様々な状況は現在のところ推測できない。 取り敢えず、ベッド、車椅子をレンタルし、訪問入浴との契約を行った。
車検に出した車が未だ出来あがらない。先週終わっている筈だが、ブレーキキャリパーのピストン破損が見つかり部品調達をしているようだ。ブレーキは走行に支障をきたしたら大変なので完璧に直すよう伝えてあるが、やはり普段の足が無いのは辛い。雨が続いているので、父の軽ワゴンに乗るのだが、普段、畑仕事に使っているため、汚いのが難点だ。


平成21年7月21日(火)
午前中は資料整理。午後は役所に行って用足し。同僚議員との懇談を行った。夕方からは、明日ケアマネージャー他が来訪されるので、家族と今後の相談を行った。父の入院も4ケ月にもなり、ストレスも相当に溜まっていると思われる。介護ベッドや車いすの種類も豊富で、症状と対応機器とのバランスについても明日相談したいと思っている。


平成21年7月20日(
今日は海の日である。昨日のフジテレビ平成教育学院では、海の日の意味を紹介していた。祝日化される前は海の記念日であり、明治天皇が東北地方巡幸の際、軍艦ではなく汽船で航海され、7月20日に帰着された事にちなんで制定されたという。、「海の恩恵に感謝し、海洋国日本の繁栄を願う日」としての制定は、とても我が国らしいと思えるが、果たしてどれくらいの人が知っているのだろうか?また、学校で、先生方は児童生徒に教えているのだろうか?しっかり問題として取り上げたフジテレビ、そしてこの平成教育学院という番組は大好きである。雨が降りそうだったが、いつものように国旗を掲揚した。
午前中はショートツーリングで、厚木、御殿場を回って帰ってきた。午後からは、途中となっていたコンテナのペンキ塗りを完成させ、剪定した枝の整理、庭土の掻い出し作業と、まさしく力仕事である。今日も何枚もシャツを取り換えなければならず、腰も痛くなってきた。物置から耕運機を持ちだして土を掻きいたりスコップを持ったりと、きっと数日後には筋肉痛になるに違いない。


平成21年7月19日(日)
朝、目覚ましを目覚ましをかけたのだが、ついウトウトとしてしまい、小学校まで原付に乗ってダッシュした。今日は社会福祉協議会主催の「早朝歩こう会」が開催され、5時に集合となっていたからだ。
挨拶を依頼されたが、まだ、頭は冴えておらず、眠い目をこすりながら「これからが本番の夏の暑さに負けず頑張りましょう」と挨拶し、準備体操の後にテクノパーク方面に歩きだした。昔よりもコースは短縮、時間も1時間半程と苦にならない設定をしており、運動とまでは言えないが、炎天下でないため良かった。
早起きの為か、眠い一日であった。以前購入していたDVDレコーダを前の物から取り換えるためにテレビ付近のコードをいじって接続したのだが、初期画面が出ない。何度かの試行錯誤を繰り返したところ、どうやらDコードが不良になっていたようだ。その後、今日も庭土の掻い出し作業を行った。簡単な作業と思っていたが、そうでもない。一輪車に土を入れて何度も往復すると、止め度もなく汗が滴り落ちる。来週には父も退院するだろうから、少しの時間でもコツコツと進めていかねばならない。


平成21年7月18日(土)
朝から来客一件。いよいよ衆議院選挙が近づいてきた。報道では、圧倒的に民主党が有利な戦況のようだ。自民党は、内部でスッタモンダしているようで、マスコミの餌食になっている。都議選では、自民、民主の動向は予想通りとされたのだが、公明党が1議席増やし、共産党は激減したというから話は難しい。
代議士達は既に選挙臨戦態勢と言うことのようだが、いや待てよ、北朝鮮貨物検査特別措置法案という重要法案は参院で野党による審議拒否で廃案になってしまったようだが、本当にこれで良いのか??拉致問題解決に全力を尽くすと言っていた与野党の方々の思いは何処にあるのですか?
横田さんご夫妻をはじめ、北朝鮮に拉致された家族を持つ方々は、本当の気持ちは「自分達の家族が元に戻ってくれればよい」
だけだと思う。金正日への恨みや時の政府やマスコミ、心無い人々の罵声、発言等、腹立たしい気持ちはいっぱいあるに違いない。しかしながら、謙虚に日本政府、そしてアメリカにまで出かけて救出依頼をされる姿は、同じ子を持つ親として痛々しくて仕方ない。北朝鮮の次の出方を占う意味でも、今回の法案の重要さを理解しないのだろうか。悔しくてしょうがない。


平成21年7月17日(金)
朝から、この数日の疲れか腰が痛い。家内が歯医者に出かけると言うので、一緒に行って近くでマッサージを受けてきた。大分楽になったものの、自宅に戻ると父の退院準備のため庭石の除去作業を行った。駐車場から自宅に車椅子で上がり下がりをするのに庭石が邪魔になっており、コンクリを張らないと移動しにくいためだ。時折雨が降る陽気なのだが、蒸し暑く何回もシャツを取り換えながら作業をした。

インターネットニュースで、自動車のナンバープレートに装着する樹脂製カバーの使用禁止を国土交通省が決めたという記事を見た。確かオービス反射目的でのナンバープレートカバーは先に違反対象とされていたが、ファッション名目の物にまで及んでいなったと記憶しているが、遅かりし規制である。スモークで殆どナンバーが見えない車両や、番号の部分だけスプレーをかけたようなカバー、この際、ナンバー折り曲げのバイクやトラックでもリアバンパーによってワザとナンバーが見えないようにしている車両も根こそぎ規制対象車両とすべきだ。 製造業者も販売業者も罰則の対象とすべきである。
免許を持ち、時には凶器となる車両を運転する者の責任として、ナンバープレートの存在は、時には犯罪防止力、抑制力となっていると確信している。今回の改正は、遅いとはいえ絶対施行すべき法律である。


平成21年7月16日(木)
午前中は役所に行って用足しをする。午後からはPCに来ていたメールの整理及びHPの更新作業を行った。夜は「新しい時代へ今動き出す 小田原大集会」に出席。今期で引退される河野議長は自分自身の考えとしてまず第一に「戦争をしない国」を掲げていたが、果たしてそうだろうか?戦争は誰でもしたくはない。まして、憲法云々よりも政府をはじめ国民が戦争という概念を全く持っていない現況において、能動的言葉である「する」「しない」などの考えはあり得ない。
「戦争をさせない国」と言うほうが正しくはないだろうか?日米安保を未来永劫維持していくとは言わないが、少なくとも北朝鮮や中国に対して「戦争をさせない」。即ち、ある一定の武力と日米安全保障条約こそが現在戦争をさせない状況を作っているものであり、それ以外の方法があるとすれば、自国の軍隊にて軍事力を高め、まさしくハリネズミ論で武装していくしかない。過去の戦争においても、独ソ不可侵条約や日ソ不可侵条約はそれぞれ簡単に破られ、日英同盟破棄等、条約や同盟を結んでいても世界情勢や各国の事情、策略によって一方的に破棄される場合もある。
先に「戦争をさせない国」と言ったが、「戦争を仕掛けさせない国」と言う方が良いかもしれない。少なくとも「戦争をしない国」というニュアンスは、無防備平和都市宣言と同義語のように思わずにはいられない。河野議長のこの発言には異論を唱える。
続いて登場した牧島かれんさんは、最初に会った印象とは打って変わって、落ち着いて堂々としていた。凄さを感じた。小田原に来て半年が経過しようとしているが、連日色々な方々と会い、議論し、挨拶し、勉強してきた日常の中で満ちてきた自信が感じられた。


平成21年7月15日(水)
告別式は午後からと言う事もあり、朝食と昼食を兼ねて斎場近くのファミレスで食事した。斎場に寄ると、義兄と会社の同僚の数人が控室に泊まったようだ。夜明かしで飲んだか知らないが、一人では居た堪れなかったかもしれない。
告別式、初七日の読経が終わり、最後の別れとなった。姉が入院した直後から折っていた折鶴を棺に入れた。その数は千羽にも及ぶくらい膨大な数を一人で折っていたようで、遺体の回りが千羽鶴だらけとなった。同時期に入院した父の為に折ったのだろうが、まさか自分の棺と共に納められるとは思ってもみなかったに違いない。鮮やかな花も添えられ、棺が閉められ火葬場に向かった。火葬場にて本当に最後の別れ。姉の肉体はここで滅ぶのである。弟として何もしてあげられなかった。我がままばかり言ってきた自分は、姉にとって良い弟でなかっただろう。結婚し子供には恵まれなかったが、旦那さんと一緒に色々な所を旅してその度に父母にお土産の提灯を買ってきた優しい姉はもうこの世にいなくなろうとしている。さようなら。そして色々とありがとうございました。これからも天国から見守って下さいと手を合わせ冥福を祈った。
御骨を義兄に託し、帰路についた。長かったようで短かった一日。80歳を越える叔母もよくお付き合いいただいた。ありがとうございました。帰りは首都高速が渋滞していたものの、夜中にならずに自宅に戻れた。明日からは、二日間ご無沙汰してしまった父の面倒をみていかねばならない。


平成21年7月14日(火)
叔母の家に寄り東名海老名SAで娘達と合流。娘達は家内の実家に犬を預ける必要があったので、途中で合流することにした。一行は斎場に向かったのだが、こちらは制限速度で走っているのに娘はついてこない。途中のPAに寄って指摘すると、どうやら家内が娘に「スピード出すな」「危ない」「左側をずっと走ってれば良い」等と余計なアドバイスを入れていたようだ。こちらも後ろに居る娘の車を気にしていない訳ではないが、後続車が次々と車の間に入り込んでしまう状況は仕方ないとしても、大型車や遅い車の後を追っていると、たちまち大きく離れてしまうことから、自分の車の直後を走るよう指示した。
時間通りに斎場に到着。姉の棺は既に祭壇にあり、亡骸に対面し線香をあげた。穏やかで、何の苦しみも無く寝ているような表情である。息子は初めて遺体を見たようで、ショックを受けていたようだ。人の死を間近に見る事はある面必要な事である。彼は何を思ったのだろうか。姉が最後に家に立ち寄った時、娘は在宅しており挨拶したが、息子は居なかったため対面していない。
義兄もその後の通夜、葬儀の打ち合わせや早めに来られた会社の同僚と話をしたりしているうちに通夜の席となった。住職の読経がはじまり、目をつぶると姉との思い出が蘇ってくる。嫌なこともしてしまった。喧嘩もした。申し訳ない気持ちも含めて涙が流れた。しかし、明日の告別式もある。明日はいよいよ最後の別れだ。通夜の後、何本も線香をあげて近くのホテルに宿泊し、一日を終えた。


平成21年7月13日(月)
明日より二日間、家を空ける関係で、アポをはじめ予定キャンセルの電話等をしなければならない。幸いにも自分自身が主催した用事は無く、突発的なことゆえ、理解していただいた。午前中は会合に出席し、午後は明日の準備を行い、夜の会合にも出席した。明日は自分の車に母と叔母を乗せ、娘が家内と息子を乗せていくことになった。平日の都内は怖いが、逆に渋滞しているくらいの方が安全かもしれない。が、娘の車には高性能のナビが積載されているので心配いらないようだ。宿も格安のビジネスホテルを斎場近くに確保した。


平成21年7月12日(日)
姉が亡くなった。享年49歳、早すぎる死である。
夜中の0時半ごろに寝たのだが、1時前に電話が鳴り、入院している姉の容態が変わったという。母を起こし、急遽千葉に向かった。夜中の東名高速、また休日とあってか比較的空いている。だが、3車線のうちの真ん中の車線を60キロくらいで走行する軽自動車がいたり、無灯火の車両が突然目の前に現れたり、考えられない車両も目にした。
義兄は本日仕事があり病院も連絡が取れないので、こちらからメールで知らせておいた。病院に到着直前に義兄より連絡があり昼過ぎに戻れるという。病院に到着した私と母が待っていたのは、既に冷たくなっていた姉であった。つい先日、意識を回復し、母と対面し涙を流していた姉であったが、何度か襲う脳梗塞が脳幹部を侵し心拍機能を停止させたようだ。意識不明が続いた中、母娘がお互いを確認し合えたあの時は、神様が一時与えてくれた至福の時間だったのだろうか。
遺体安置室に置かれた姉の前で義兄の到着を待ち、自宅に無言の帰宅をした。葬儀屋と打合せ、火、水と葬儀を行う事にし、帰路についた。そのまま父に報告をするため病院に寄って筆談で内容を書いたところ、理解したかどうかは判らぬが頷くばかりであった。病院にいる間に少しの仮眠をしたが、相当疲れた一日であった。


平成21年7月11日(土)
朝は、同僚議員の母の葬儀に参列した。昨日の通夜に伺う予定であったが、会議を控えていたので告別式参列となった。午後からは、ケアマネージャーアを招いて父の退院後の介護措置についての相談をする予定であったが、担当者が急に体調を崩したとの連絡があり延期となった。
夜はパトロールを実施。年4回の中学校PTA校外指導委員会のメンバーも同乗しての見回り。本日は白髭神社小祭の宵宮と言う事もあり、境内及び祭会場の公園などをパトロール。PTAの方も初めての経験のようで、見回りポイントの多さに驚いていた。


平成21年7月10日(金)
PCに入れてあるデータの整理を行った。年間に何度か整理していかないと、至急の文書作成等でいい加減な場所に保存していた文書もあり、その作業はかなり頻繁にあるため、移動やコピーを繰り返して整理するのだが、なかなか終わらない。やはり、日頃よりしっかり管理は行っておくべきだと感じる。
夜に開催する育成会資料作成中に来客もあり、レジュメが出来たのは会議直前であった。事務所にて育成会の役員会を開催。先日の交通安全防犯の集いで紹介したプレゼン資料も欠席していた方々にも見せたり、地域における青少年の状況などの情報交換等を行った。


平成21年7月9日(木)
朝のパトロール中に子供が騒いでいる所に出くわした。どうやら通学路の途中の石垣に蜂の巣があるらしい。よく見てみると、アシナガ蜂の巣があり、まだ巣自体は小さいので3匹程の蜂がいる。車には殺虫剤が装備されてはいなかったので、いったん帰宅し、自宅から蜂専用の殺虫剤を持って現場に行き一吹きすると、簡単に退治することが出来た。

今日は女性ばかりの会に招かれ講演をした。毎年この時期に青少年および学校教育等についての話をすることになっているのだが、既に自分の子供も義務教育が終わり、おまけに14年間務めた補導員もこの春に辞めたのでリアルな情報が少なくなったと断わった上で話をした。主に、教育基本法の改正及び学習指導要領の改訂により欠落した規範意識の回復、道徳教育、国家や郷土を愛する心を育てる教育に転換する項目の重要性を説いた。また、本市の状況を知りえる範囲で説明し、後半は資料を使って日本語の面白さをテスト形式で出題し、参加者と交流する方法を初めて実践してみた。
アッと言う間に時間が来たのだが、今回出題した内容は参加者には好評に見えたので、他の所でも話してみようと思う。
夜は幼稚園、小学校、中学校および地域の団体が集まって協議する橘中学校区3校2園児童・生徒指導研究協議会総会に出席した。


平成21年7月8日(水)
午前中は明日の会合用の資料集めのために役所に行って新聞のコピーを取ってきた。自宅にあった新聞は知らない間に分別収集に出されていたので、記憶を頼りに探すと見つけることが出来た。
午後からは、地元の中学校で開催された「防犯交通の集い」に防犯団体として参加した。警察署からは生活安全防犯課長と交通課の方々が来られて、講義を行った。橘ブルーアイズは先日用意していた中学校区内の危険箇所をパワーポイントで説明したのだが、中学生はこれを見てどう思ったのだろうか。約20分間のプレゼンは終了し、全体で2時間の集いは終わった。中学生諸君は騒ぐことなく聞いていたのは感心する。
しかしながら、今時の中学生は本当にデカイと感じた。これから夏休みを迎えるにあたり、防犯、交通の両面に気をつけてもらいたいものだ。
事務所に戻って、明日の講演用資料を作成した。午前中に集めた資料を打ち直しての資料づくりは夜遅くまで続いた。


平成21年7月7日(火)
午前中は地域の方の所に伺い、相談のあった件について報告する。午後は事務所にて一件のアポイント。その後は昨日のパワーポイントの続き作業を行ってようやく完成したが、持ち時間20分になるよう調整作業をしたりして夜遅くまでかかってしまった。


平成21年7月6日(月)
プレゼンの為の写真を撮りに、バイクで地域内を廻る。公園やコンビニ、道路など30ケ所以上をデジカメにおさめ、パソコンに移した。この写真一つ一つに注釈を入れる作業に没頭。夜の会合まで作業を続けた。


平成21年7月5日(日)
実践倫理宏正会壮年の集いに出席した。いつもの会場と違い、今日は和室で座談会方式である。演壇された方々は3名であったが、30分位で終了。あとは、質疑や意見交換が行われたが、はじめての試みだったのでなかなか意見が出なかった。いくつかのテーマを先に伝えて、全員が一言でも喋らせる形が良いと思った。


平成21年7月4日(土)
来週に中学校で発表するプレゼン資料を作るため、パワーポイントで作成を始めた。久しぶりに作るため、アニメーション機能などの作業手順をすっかり忘れており、取り敢えず単調に既存の写真に文章を入れたりして作り始めた。
今日は夜の会合に出席した。


平成21年7月3日(金)
先日、心電図をとった病院の予約があるのだが、午前中の時間では駐車場が満車の危険性があり、曇天ではあったがバイクで病院に向かった。リアボックスにはカッパを用意して。
受付の後に担当科にカルテを置くも、超音波の写真を撮ってくれという。先日心電図をとった時に同時にすれば良いのにと思ったのだが、張り紙には「診察の当日に撮ります」と書いてあるので仕方ない。診察まで数十分かかったが、医師からは、何も心配することが無いと言われ安心した。
病院予約と同時間に会合があったので、遅れて会合に出席した。


平成21年7月2日(木)
朝より介護及び身体障害関係の資料に目を通す。午後からは毎年一回の健康診断のため、役所の7階に行く。尿検査、聴力、視力、心電図、体回り、採血、眼底、体測、レントゲンと一通りの検査を受けた。特に記すことは無いが、視力の低下が初めて顕著となった。パソコンのためか、ハッキリと測定の図形が見えない。果たして一時的なものか心配である。
事務所に戻って、今度は本年3月に発行された新しい介護保険といきいき長寿ガイドブックを見つつ、インターネットからの情報も含めて閲覧する。おかげで、またまた視力が悪くなってしまうのであろうか・・・。


平成21年7月1日(水)
7月となった。事務所の皇室カレンダーは秋篠宮ご一家の御写真となり、大きくなられた悠仁親王が文仁親王妃紀子様に抱っこされているお姿が喜ばしい。

昨日終了した議会であるが、その総括という形で何件か電話をいただいた。修正案自体、こちらとしては別に行政の足を引っ張っているつもりは微塵もないが、受け止め方が有権者それぞれで違う事を感じた。
同僚議員とも話をしているが、今回の経緯や内容をしっかり伝えることが大事である。市民ホール関連予算が修正案に至った経緯は、簡単に言うと「ホールを建てるにあたり、土地は確保した。設計もした。・・①・・・しかしながらもう一度内容を検討し直ししよう。・・②・・隣の民地が必要だ。3000平方メートルが必要である。・・・③・・・隣の一部の民地を手に入れるための補償費はどれくらいか委託しよう→補正予算案・・・④」
①は加藤新市長誕生。市長が当初主張していた駅前へのホール建設を断念し、従来の三の丸地区への建設を表明。
②この案をまちづくり検討委員会に諮問し、政策として4月30日に議員説明会を開催したものである。議員説明会は、記者会見前に議員に提示する程度のものであり、議論の場では無い。
③は6月定例会まではゴルデンウィーク、5月臨時会等、限られた時間の中かもしれないが、その間、当問題については議会での議論は皆無である。
④総務常任委員会にて予算案説明審議。何故土地拡張が必要なのか具体案は提示されず。虫食いとなっても購入すべきかとの問いにも納得のいく説明は無い。よって修正案を提案し、委員会で可決。続く本会議でも賛成多数で可決した。
来る委員会では、今迄の経緯、内容を含めてもう一度整理し直しての議論を行うべきである。

父の退院も間近なようだ。自宅に戻ると母も付きっきりとなると予想されることから、同じく入院している姉に会いに行く機会も少なくなるかも知れない。義兄からは「時折笑うこともある」との知らせもあった事から、母と二人で姉の元に向かった。
病室に入ると、明らかに姉の様子が違う。病室に所狭しと並んでいた機器も少なくなり、喉への酸素補給器具はあるものの、自呼吸している。声をかけるとてを動かしたのでその手を握ると強く握り返してくる。すごい。少々遅れて母が駆け寄り声をかけると、姉の顔は泣き顔になり涙が頬を伝わった。奇跡だ。声は出せないものの、姉は母がそこに居ると言う事を十分理解したらしい。
既に何回も訪れ、その度に意識不明のままの娘の姿に母は諦めの境地でいたことは確かだ。医者からも厳しい話は聞かされていた。しかし、奇跡は起きた。意識だけでなく、感情も表現できる身体となることなど夢にも思わなかった。50歳近くの我が子ではあるが、まるで赤ちゃんに語りかける母のように、いつまでも手をとって話しかける母はどれだけ喜んだことだろう。この先、まだまだ予断は許されないが、久しぶりに笑顔の母を見た感じがした。